シャガは努めて冷静に考えた。

このままだと、きっと餓えて死んでしまう。

幼心にそう確信したことが、シャガの一番古い記憶であった。

幼いシャガはもう立ち上がる気力も湧かぬほどに餓えていた。
なぜ、自分がひとりなのかわからなかった。
保護者ともいえる存在のことを、今でもシャガは覚えていない。
親はもちろんいるはずなのだが、物覚えのつかぬ頃に離別してしまったのか、それとも何らかの理由があって、半ば故意に忘れたのか、現在に至っても本当のことはわかっていない。

シャガは、死にたくなかった。

気が狂うような空腹は、シャガの心と身体を確実に蝕んでいた。
あまりに腹が減るので、寝て忘れようとするのに、手足の先がどんどん冷たくなってゆき、極度の空腹で目が覚める。
空腹を紛らわせるために生水を飲んで飢えをしのごうとしたが、水にあたって嘔吐と下痢で苦しんだ。
幼いシャガには、生水を飲んではいけないという認識が欠落していたのである。

シャガは、最後の気力を振り絞り、賑わう街の方へとふらふらと歩いて行った。
夕食時の街にはいい匂いが充満していて、胃が刺し込むように痛む。
特に目的もないまま、ふらふらと歩いていたシャガに声をかける人は誰一人としていない。
小汚い子ども一人に、わざわざ構っていられるほど暇ではなかったのである。

通りがかったレストランの裏口から出てきた従業員が、残飯をゴミ箱に捨てた。
シャガはそれを穴が開くほど見つめ、従業員がいなくなったのと同時にそこに駆け寄った。
残飯といえども、まだ食事の様相を保っているものが、目の前にあった。
手を伸ばせば、それを手に取って、数日ぶりに人間の食べ物――だったもの――を食べることが出来る。
唾液が口の中に溢れて、シャガはごくりと喉を鳴らした。

それなのに、シャガは凍り付いたように残飯を見つめたまま動かなかった。
シャガの頭の中に、様々な思いが駆け巡る。
そんな折、新たな残飯を持ってレストランの従業員が裏口から現れた。

「あ?なんだお前…」

従業員は、シャガの頭の先から足の先までをじろじろと不躾に見て、そうして合点がいったようににやりと笑った。

「お前、腹減ってるのか」

にやにやと厭らしい笑みを浮かべながら、従業員の男は自分の足元に残飯を投げた。

「ほら食えよ。腹減ってんだろ?這いつくばって食えよ」

男が投げたのは、それなりに大きな肉の塊だった。
シャガはこんなに餓えているのに、こんなに食べ物を残す者が同時に存在するということは、とても奇妙なことだった。

「何やってんだよ。ごちそうだぞ、早く食えってば」

根が生えたようにその場から動かないシャガを見て、男は急かすようにせせら笑った。
シャガは地面に落ちた肉を見つめながら、ふらふらと肉のもとに歩いていって、膝をついた。

ほんの少しの間ではあるが、シャガは茫然とその肉を見つめていた。
今にも這いつくばって、それを食べてしまいたかった。

しかし、シャガはその肉を鷲掴みにすると、ぽかんとしている男の顔面にそれを投げつけた。

「死ね!」

男が激昂するよりも早く、シャガはそう吐き捨てて、その場から走り出した。
自分でもこんな体力が残っていたことを驚くのと同時に、悔しくて、腸が煮えくり返りそうな怒りにシャガは血が滲むほど唇を噛んだ。


シャガの理性は、施しを受けることを拒んだ。

最も、施しというにはあまりに悪意の満ちたものであったが。

与えられぬならば、奪う他ないと、シャガの理性はシャガの思考を本能に導いた。
シャガはそれから盗みを繰り返すようになった。
ある時は留守の家を狙い、ある時は家畜を盗み、ある時は店先から盗んだ。
シャガは身体能力に長けていたために、捕まった試しがなかった。
その上、悪知恵が働いたので、盗みを働くときはいつも時と場所を変えていて、出来る限り証拠を残すことなく、奪うものも最低限に留めたので、早期に盗みの事実が明るみに出ることがなかったのである。

しかし、そんなシャガも、一度痛恨のミスを犯してしまった。
ある民家に盗みに入ったとき、偶然家人と出くわしてしまったのである。
その際、家人はシャガをひたすらに殴打し、更に悪いことに、その家人は大型のプライヤーのような器具で、シャガの角を根本から潰し折ってしまった。
あまりの痛みに泣き叫ぶどころか気絶してしまったシャガは近くのゴミ処理場に投げ捨てられた。

丸一日以上経ってようやく意識を取り戻したシャガは激しく嘔吐したあと、激しく消耗した体力を補うべく、再び食べ物を盗みにゆくのであった。



コソ泥のような真似をすることを情けなく思うときもあったが、シャガにとって能動的に生きることは受動的に生きることよりも重要なものであった。
盗み奪うことは生に対して能動的で、施しを受けることは生に対して受動的であるに違いなかった。
他人からすれば、盗みを働くことも施しを受けることも等しく卑しいことであろうし、むしろ、施しを受けることは恥ずかしいことではないと考えるほうが妥当であるのかもしれない。
しかし、シャガは絶対的にそれが許せなかった。
弱者として生を享受するくらいなら強者として死ぬべきだ。



シャガは、ますます他者を寄せ付けず生きるようになった。
目ばかりがぎらぎらと熱を帯び、自らの生きる術を見据えていた。

そんな折、シャガに一つの転機が訪れた。
ダラムを統べるグロムと出会ったのだ。
なぜ、一介のならず者に過ぎないシャガがグロムの目に留まったかはわからない。
シャガはどうしたことか、グロムに引き取られることとなった。

シャガにとって、グロムは圧倒的強者であり、そんなグロムの前ではシャガは弱者にすぎなかった。
ただ尖っているだけでは役立たずに変わりなく、グロムはシャガに様々なことを教えた。
シャガは貪欲にそれらを吸収し、知恵をつけた。
幼少時、何度も栄養失調で命を落としかけていた割に、シャガは恵まれた体躯を持っていたので、知恵をつけ精神的にも肉体的にも成長したシャガはみるみる頭角を現し、グロムの配下のもと、異例の速さで地位を築き始めていた。
そんなシャガの力を無視出来なかったのか、シャガは魔王に推挙され、一国の主となった。


しかしシャガの素行は悪くなる一方であった。
グロムの弟分と称されるほど力を付け、自身にも弟分とも呼べる存在が出来てから、少し落ち着いていたものの、その落ち着きの反動かの如くある日またシャガの素行が目に余るようになってきた。

戦から帰還すればまだ暴れたりないと言わんばかりに城壁を破壊したり、ダラムの色街で夜な夜な遊び歩くもその殆どをツケた。
更に、自らの領地には殆ど帰ることなく、新たに雇った執事にほぼ一切の城の管理を任せていた。

シャガは、どうして自分がこのように満たされない気持ちになるのか、どうしてもわからなかった。

餓えていた幼少時代、あんなにも希った力を手に入れたのに、なぜ満たされぬのか。


金があれば満たされるのか、と思い、シャガは自国を整備することにした。
久方ぶりに城に帰ってみれば、執事の趣味で庭が随分花だらけになっていた。
それには少々閉口したが、何か支障があるわけでもない。
眉間に深い皺を寄せ庭を暫し眺めてから、乱暴に扉を開けてシャガはようやく領地に戻ってきた。

留守の間も定期的に掃除されていたのだろう、埃ひとつ落ちていない自室をうろつきながらシャガは黙考した。
途中、執事が紅茶と洋菓子を持ってきたので、執務机にどっかりと座りこみ、紅茶を一口飲んで、洋菓子をかじる。
ほどよい甘さのそれは、幼少期の自分は存在すらも知りえなかったのに、今となっては執事が手製のものを出してくれる身分にまでなったんだから、わかんねえもんだよな、と鼻で笑う。

手っ取り早く金を稼ぐにはどうしたらいいのだろうか。

開くことのなかった各国の概要、施策、条例要項などを紐解きながら、シャガはがしがしと頭をかいた。

自国、ルガラテラは、この地域一帯を治めていた領主が圧政を敷いていたせいで住民が少ない。
その上満足に産業も発展していないので、税収入はあってないようなものであった。
増税したところで大した収入は見込めないどころか不満が噴出するに違いない。
移民を誘致し、産業を発展させなければこれ以上の税収は見込めないことは明白であった。
かといって、ルガラテラは資源に乏しく、領地も決して大きいとは言えなかったので、輸出産業で栄えることは難しいであろう。

ダラムは色街、レオバルツァは温泉産業、ロサブランは鉱石をはじめとする豊富な資源。
そのロサブランが積極的に保護しているフィアーテという国は、その島独自の美しい生態系に付随して観光業が栄えているらしい。
同じ黒派諸国に目を向けてみても、どの国もルガラテラにはないものを持っていた。

シャガは深い溜息をついた。

数人、昔からのルガラテラの住人を視察に行ったが、どれもこれも協調性皆無の人格破綻者ばかりだった。
到底協力は見込めないであろう。

紅茶のおかわりを継ぎに来た執事のハルトヴィヒが、また何か作っていたのだろう甘い匂いをさせていたので、「お前、菓子屋でもやるか?」とからかってみたら、存外満更でもない顔をしたのでシャガはまた深い溜息をついた。

「なあ、おまえ」
「なんでしょう」
「おまえはどんなときに金使うんだ」

ハルトヴィヒは表情を変えぬまま、顎に手をやると暫し考え込んだ。
そうして、思いつくがままに「日々の買い物、趣味、ええと、園芸と、料理と……その他は、貯金ですね。妻は、浪費家ではないので…特に使うこともないです、彼女も働いていますし」と答えたので、シャガは「つまらねえ金の使い方するんだな」とため息を吐いた。
そもそも、この堅物の執事に金の使い方を聞くほうがおかしかったのだとは思うが。

「ルガラテラ中に植物を植えて緑化計画はどうですか?花をたくさん植えたら観光客が来ますよ」
「そういうのは白派んとこの緑頭の専売特許だろ」
「ああ…」

ハルトヴィヒは至極残念そうな顔をした。
おまえがやりたかっただけだろ、とシャガは内心悪態をつきつつ、また頭を悩ませる。
ぼんやりと各国の資料を再び眺めていたときに、シャガはふと気が付いた。

「女を買うのも、宝石を買うのも、温泉に入るのも、観光するのも、全部娯楽だよなぁ」
「前半は私には同意出来かねますが。まあそうでしょうね」
「ケチなやつでも娯楽には金を落とすんだよなぁ…」

シャガは眉間に深い皺を寄せて長い間考え込んでいたが、ややあって、にやりと笑った。

「カジノ、作るぞ」


シャガはまず出資者を募った。
カジノの会員権を売り出すと、先物買いにも関わらずルガラテラの国営カジノ案には多くの関心と、多くの資金が集まった。
出資者の中には最近急激に成長を遂げたルガラテラに住む成金もいたので、シャガはその出資金を全て費やし、荒れた街の中心部を整備し、巨大なカジノを建てた。

国営カジノの噂は瞬く間に広まり、会員権は高額で取引されるようになり、客足も順調に伸びた。
その売上金で更にカジノを大きくし、いくつもの高級ホテルを建て、ルガラテラはとんとん拍子に成長を続けた。
もちろん、儲けを出資者や住民に還付することを忘れなかった。
ルガラテラへの転入者は更に増え、カジノ目当ての観光客も同時に増えた。
ルガラテラは随分賑やかになって、シャガ自身、時折視察と称してカジノで賭博を楽しむことも多かった。


夜、自室で、眼下に明るい街を眺めながらふと考える。

そもそも、何でカジノを作ったんだったか。

満たされない気持ちを満たすために、金があれば満たされるのではないかと考えたからだった。

ルガラテラは好景気に沸いていて、眠らない街の異名を取るほどであった。
国策が成功を収め、喜ぶべきはずなのに、シャガは当初の目的を果たしていないことに歯噛みした。

何をしても満たされぬ。
シャガは茫漠とした記憶の底に、かつての自分を見た。
シャガの満たされぬ思いは幼少時から続く圧倒的な愛情の欠乏に起因しているとは露とも知らず、シャガは明るい夜を忌々し気に睥睨してから、厚いカーテンを乱暴に閉めた。

(シャガ)